日曜の午後昼飯時に、特に見たいテレビ番組もなかったので、それならばと撮り溜めている『ブラタモリ』の録画の中で、【江戸の運河/前編】というのがあったことに気がつき、見てみることに。放送日は2012年だったようですが、月日まではよく覚えていない…。
『小名木川(おなぎがわ)』は川とは言いますが、東は旧中川から始まって、西へまっすぐ隅田川へと繋がっているほぼ海水の運河です。番組では東側の蕃所のところからまっすぐ小名木川クローバー交差点あたりまでクルーザーで隅田川方面へ向かい、CGを交えながらこの運河がどのように変遷して来たかを紹介していました。場所としては以下のアカカコミのところになります。
By Copyright © 国土画像情報(カラー空中写真) 国土交通省, Attribution, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=27758427
つい護岸が気になって、小名木川全体が撮れていないですが(笑)このようにきれいに整備されつつあります。
ハゼ釣りの季節になると、釣り人の姿も多くなります。
この小名木川というのは徳川家康が行徳から塩などを直接江戸にスムーズに運ばせるために、小名木四郎兵衛に命じて開削して出来た運河ということです。古地図で見るとこのへんになります。
小名木川の上の方にも1本まっすぐずどーんと横切っている運河がありますが、これは『竪川(たてかわ)』です。今はある部分は埋め立てられ、暗渠となっているところもあり、その上を首都高速7号小松川線がかぶさるように架かっています。
この古地図を見てもうひとつ気になるのが、アカマル部分の文字『十万坪』て書いてあるところです。屋敷もなくだだっ広い土地のような印象ですが、ここがおそらく、歌川(安藤)広重の『深川洲崎十万坪』の十万坪なんだと思います。その浮世絵はこれです。
寛政3年9月4日(1791年10月1日)、洲崎一帯を台風による高潮が襲い、周辺家屋を呑み込み多数の死者を出す大惨事が発生。幕府は以後、高潮に備えて洲崎一帯に家屋の建築を禁止した。
その後も養殖業は依然として盛んに行われ、また潮干狩りの名所として発展していく。江戸後期には「東に房総半島、西は芝浦まで東京湾をぐるりと手に取るように眺められる景勝地」として発展し、初日の出の名所として人気を集めた。
という解説がwikiにありました。
個人的に好きな浮世絵のひとつですが、版画なのでカラーバリエーション色々あります。Googleの画像検索でこれだけ出て来ます。
浮世絵に描かれたかつての江東区ですが、今の町名では東陽町一丁目あたりになるようです。深川第8中学校横の南開橋を渡ると道が広くなっていて、東陽弁天町アーケード街のところですが、この一帯にはかつて洲崎球場があり、洲崎遊郭があり、洲崎パラダイスと呼ばれたところで、道の広さからなんとなくかつて遊郭だった雰囲気が感じられるのですが、どうでしょうか。
この『洲崎』だけでもいろんな歴史があってブログ1本書けそうですが、今回はこのあたりで。
竪川や小名木川がこうして出来まして、その後、南側の埋立てが続いて今日に至っているわけですが、運河がこれだけあるっていうことは、少しづつ必要に応じて埋め立てて来たからなのでしょうか…。
なんか適当な合成ですんません…。
便利なサイトがありました。
『今昔マップ』
http://ktgis.net/kjmapw/index.html
こんな感じで現代の地図と比べて見ることが出来ます。
洲崎神社の歴史と併せて
御朱印・神社メモ【洲崎神社/東京都江東区】
https://jinjamemo.com/archives/susakijinja.html
『洲崎の印象 Kindle版』
洲崎パラダイスが舞台となっている映画。